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第07話 生贄として捨てられて

작가: あおはな
last update 게시일: 2026-06-21 01:31:49

 馬車を降りると、冷たい夜気が頬を刺した。

 王都の空気とは違う。

 湿った土の匂いと、濃い木々の匂い。

 そしてどこか鉄に似た、鋭い魔力の気配。

 目の前には、魔物の森が広がっていた。

 高く伸びた木々が、月明かりを遮っている。

 森の奥は黒く沈み、道と呼べるものはほとんど見えない。

 風が枝を揺らすたび、葉擦れの音がざわざわと広がる。

 まるで、森そのものが低く囁いているようだった。

「……エヴァレット公爵令嬢」

 ローウェンの声がした。

 振り返ると、彼は馬車の横に立っていた。

 顔色は悪く、けれど、何かを決めたように、手に持っていたものを差し出してくる。

 水筒と、小さな毛布だった。

「せめて、これを」

 セレナは、差し出されたものを見つめた。

 水筒は使い込まれている。

 毛布も上等なものではなく、騎士が野営に使うような厚手のものだった。

 けれど、森へ一人で入るセレナにとっては、どちらも貴重なものだ。

「命令では……」

 ローウェンは、そこで言葉を詰まらせた。

 言いにくそうに視線を落とす。

「最低限の荷物をお渡しする必要もないと、言われております」

 セレナは、その意味を理解した。

 森へ送るだけ。

 生き延びるための準備など、必要ない。

 王国は、セレナが森で死ぬことを前提にしているのだ。

 それでも、セレナは水筒と毛布を受け取った。

「ありがとうございます」

 ローウェンは、苦しそうに顔を歪めた。

「礼を言われるようなことではありません」

「いいえ」

 セレナは首を横へ振る。

「とても助かります」

 水があり、そして身体を冷やさない毛布がある。

 薬草袋も持っている。

 それだけで、何もないよりはずっといい。

 幼い頃に読んだ本には、森で夜を越すために必要なことが書かれていた。

 水を確保すること。

 体温を奪われないようにすること。

 不用意に火を焚かないこと。

 血の匂いや食べ物の匂いを広げないこと。

 実際に森へ入ったことはない。

 けれど、何も知らないよりはましだと思いたかった。

 ローウェンは、剣の柄へ手を置いたまま、セレナを見つめていた。

 何かを言おうとしている――けれど、言葉にならない。

 彼の後ろでは、御者が怯えた様子で馬を押さえていた。

 馬も、森の気配に落ち着かないのだろう。

 何度も地面を蹴り、鼻を鳴らしている。

 遠くから、再び魔物の遠吠えが聞こえた。

 ローウェンの肩がわずかに跳ねる。

「……私は……本当は、このようなことをしたくありません」

 セレナは黙って聞いていた。

「ですが、王太子殿下のご命令です。私には、逆らうことができません」

「大丈夫です、分かっています」

「家族もおります。騎士の職を失えば、彼らを養えなくなります」

「はい」

「だからといって、あなたをここへ置き去りにしてよい理由にはならない」

 ローウェンの声が震えた。

「分かっているのです」

 その言葉には、誤魔化しようのない苦しさがあった。

 セレナは、少しだけ困った。

 責められることには慣れている。

 罵られることにも。

 恐れられることにも。

 けれど、罪悪感を向けられることには慣れていなかった。

 どう返せば、相手が楽になるのか分からない。

 だから、セレナはいつも通りに答えた。

「あなたを責めるつもりはありません」

 ローウェンは息を呑んだ。

「あなたが命令に逆らえないことは、分かっています」

「ですが、私は……」

「私をここまで連れてきました」

 セレナは静かに続けた。

「それが、あなたのお役目なのでしょう」

 ローウェンの顔が、さらに歪む。

 その表情を見て、セレナはようやく気づいた。

 慰めようとした言葉が、かえって彼を苦しめているのかもしれない。

 けれど、もう他の言葉が見つからなかった。

 ローウェンは、深く頭を下げた。

「どうか、お許しください」

 月明かりに照らされた鎧が、小さく音を立てる。

 セレナは、水筒を胸に抱いたまま、首を横に振った。

「許すも何もありませんから、大丈夫です」

 自分には、誰かを裁く資格などない――そう思った。

 ローウェンはしばらく頭を下げたままだった。

 やがて、御者が不安そうに声をかける。

「騎士様、長く留まれば危険です」

 ローウェンは目を閉じ、ゆっくりと身体を起こした。

「……出すぞ」

 御者は急いで馬車へ乗り込んだ。

 ローウェンも、最後にもう一度だけセレナを見た。

 何かを言いたげな目だった。

 助けたい、しかし、助けられない。

 その矛盾に、彼自身が押し潰されそうになっているようだった。

 セレナは、静かに頭を下げた。

「――お気をつけて」

 ローウェンは何も答えなかった。

 答えられなかったのかもしれない。

 馬車の扉が閉まる。

 御者が鞭を鳴らすと、馬車は来た道を引き返し始めた。

 車輪の音が、少しずつ遠ざかっていく。

 蹄の音も、ランタンの灯りも。

 やがて、完全に見えなくなった。

 セレナは一人になった。

 森の入口で、水筒と毛布と薬草袋だけを抱えて立っている。

 王宮の灯りは、もうどこにもない。

 すべて、馬車とともに遠ざかってしまった。

 残ったのは、夜の森だけだった。

 セレナは、ゆっくりと振り返る。

 木々の奥は、底の見えない闇に沈み、そして風が吹く。

 枝が擦れ合い、葉がざわめく。

 その音に混じって、何か別の気配があった。

 魔力が乱れている。

 はっきりと目に見えるわけではない――けれど、肌で感じる。

 冷たい水の流れに手を入れたときのような、ぞわりとする感覚。

 その流れが、森の中で渦を巻いている。鋭く、荒く、どこか苦しそうに。

 セレナは胸元を押さえた。

 不思議だった。怖いはずなのに、その乱れが少しだけ悲しく感じられる。

 まるで、森そのものが痛みに耐えているようだった。

「……どこか、休める場所を探さなくては」

 声に出すと、少しだけ落ち着いた。

 立ち尽くしていても、夜は越せない。

 セレナは幼い頃に読んだ本を思い出す。

 森で迷ったとき、まず探すべきは水場。

 ただし、大きな獣や魔物も水を求めて集まるため、水場のすぐそばで眠ってはいけない。

 地面が湿りすぎている場所も避ける。

 枯れ葉が厚く積もった場所は、虫や蛇が潜んでいることがある。

 低い茂みは身を隠せるが、逃げ場がなくなることもある。

 安全な場所など、そう簡単には見つからない。

 それでも、何もしないよりはよい。

 セレナは毛布を肩にかけ、水筒を布紐で腰へ結びつけた。

 薬草袋は胸元へ抱え、そして、森の中へ一歩踏み出した。

 足元で枯れ枝が折れ、小さな音なのに、やけに大きく聞こえた。

 セレナは立ち止まり、耳を澄ませる。

 遠くで、何かが草を踏む音がした。

 魔物かもしれない、いや、ただの獣かもしれない。

 どちらにしても、近づかないほうがいい。

 セレナは音のする方角を避け、木々の間を進んだ。

 月明かりはほとんど届かない。

 けれど、暗闇に目が慣れてくると、木の幹や足元の起伏が少しずつ見えるようになってきた。

 根に躓かないよう注意しながら歩く。

 灰色の布の端が枝に引っかかり、セレナは慌てて外した。

 その拍子に、銀髪が一房こぼれる。

 月の光を受け、薄闇の中で淡く光った。

 セレナは反射的に髪を隠そうとした。

 けれど、手が途中で止まった――ここには、誰もいない。

 銀髪を見て悲鳴を上げる者も、不吉だと囁く者も、母のように顔を背ける者も誰もいない。

 セレナは、こぼれた髪をそっと指先で触れた。

 冷たいと思っていた髪は、夜露を含んで少し湿っているだけだった。

 不吉なものではない、そう思えたわけではない。

 けれど、この森の中でだけは、誰かを怯えさせる心配をしなくてもいいのだと思った。

 その事実が、少しだけ胸を軽くした。

 さらに奥へ進むと、小さな水音が聞こえた。

 セレナは慎重に近づく。

 低い茂みの向こうに、細い流れがあった。

 小川というほどではない。

 岩の隙間から染み出した水が、地面を伝っている程度だ。

 それでも、水は澄んでいるように見えた。

 セレナは膝をつき、水面へ顔を近づける。

 土の匂いはするが、腐った匂いはない。

 水の流れも止まっていない。

 少しだけ指に取り、唇へ触れさせる。

 ――冷たい。

 喉が渇いていたことに、そのとき初めて気づいた。

 水筒へ水を補おうとして、セレナはふと顔を上げた。

 森の魔力が、わずかに動いた気がした。

 先ほどまで荒く渦を巻いていた流れが、セレナの周囲だけ、ほんの少し緩やかになっている。

 気のせいかもしれない。

 けれど、小川の周辺の葉が、風もないのに微かに揺れた。

 まるで、セレナの存在に反応しているように。

「……私に、何かできるの?」

 呟いてから、セレナは苦笑した。

 できるはずがない――自分は、王国に災厄を呼んだとされた娘だ。森を鎮めるどころか、森へ返されるべきものとして捨てられた。

 それなのに、どうしてそんなことを考えたのだろう。

 水筒を満たし、セレナは立ち上がった。

 水場の近くで眠るのは危険だ。

 少し離れた場所に、身を隠せる木の根元を探さなければならない。

 足を踏み出そうとして、ふと気づいた。

 自分は、公爵家へ戻れない。

 王宮へも戻れない。

 けれど、そのことを悲しいとは思っていない。

 ――恐怖はある。

 夜の森は怖いし、魔物も怖い。

 明日の朝を迎えられるかどうかも分からない。

 それでも、公爵家へ帰りたいとは思わなかった。

 あの離れへ戻りたいとは思わなかった。

 母に怯えられ、父に無視され、妹の笑顔の裏で傷つけられる場所へ。

 戻れないことを、悲しめない。

 そのことに気づき、セレナは胸の奥が奇妙に静かになるのを感じた。

 ――捨てられたのに。

 確かに捨てられたはずなのに。

 どこかで、やっと終わったのだと思っている自分がいる。

 その時だった。

 木々の奥から、低い唸り声が聞こえた。

 セレナは息を止める。

 獣の声――けれど、ただの獣とは思えないほど重く、苦しげな響きだった。

 続いて、風に乗って匂いが届く。

 濃い、鉄の匂い。

 それは、血の匂いだった。

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